長い歌舞伎の歴史の中で、その芸名の下に一座とか劇団とかを付けていながら、肝心のその俳優が居なかったという例は菊五郎劇団が初めてでした。 昭和24年7月、六代目菊五郎が病死した後に、残された人たちが心を決して「菊五郎劇団」として結束しました。そしてその歴史は今日まで続き、歌舞伎の俳優の分布図がすっかり書き換えられた中に、はっきり「劇団」としての存在を主張している劇団です。 発足当時これには三代目左團次のような円やかな人格が中核にあって、しかもやや先輩としての位置にあったことが、劇団運営の上に潤滑油としての役目を果たしたことは言うまでもなく、梅幸、松禄、羽左衛門以下の六代目に親しく薫陶を受けた者が中心として働き、これに多賀之丞、鯉三郎、照蔵、新七、薪蔵、菊十郎など老巧が周囲を堅め、それに新鋭の簔助、橋蔵、菊蔵らが漸く力をつけ更に海老蔵(後の十一代目團十郎)とその一門が特別参加して協力した事が、次第に「菊五郎劇団」を重量感あるものにしたのでした。 それにしてもみごとな菊五郎劇団のすすみかたでした。丁度、年齢的に歌舞伎俳優の交替期にさしかかっていたこともありましたが、歌右衛門、勘三郎、幸四郎(白鸚)らの吉右衛門系の一団と並んでの菊五郎劇団の華々しい足どりは、戦後歌舞伎の今日の盛観をもたらす大きな理由にあげられます。 これというのも、菊五郎という大きな「旗じるし」を揚げることができたからで、その「旗」の下に拠ったという自信と誇りは更にこの人たちを精神的に励まし鼓舞したことは非常なものがあります。 全体の演出の上に、個々の演技の上に、あるいは歌舞伎俳優の生活の処しかたに、菊五郎劇団員としてはずかしくなくありたいという心構えが誰の心の底にあり、時にはそれが気持ちの支えになっていたこともあったにちがいありません。 菊五郎劇団の人たちにとっては、六代目菊五郎は極端にいうと「神」に近い存在として、常にその背後に立っていて、菊五郎という一人の俳優をお手本として、一人の人格を規矩として、時には守護神として進んできたのでした。 この揃った足並みの綺麗さは、一人一人の演技の上にも、また全体の舞台の上にも示され菊五郎劇団らしい特色は自ずと誰の目にもわかりました。 それが具体的にどういうものであるかは説明する暇がありませんが、要約して言うならもっとも本格的なそして芸術醇度の高く清らかなものというべきでしょうか。そして進取的な姿勢。これも大きな特色です。 戦後につくられた歌舞伎の代表的な舞台のいくつかが菊五郎劇団によって生まれたことは衆目の認めるところ、それが清新なものであるものも菊五郎劇団にみなぎっていた若さが発露したものです。 ここでは個々の演目を挙げるのをさし控えますが、この溌刺とした一団が今日あるような歌舞伎にしている要因であることは知って頂けるだろうと思います。 それもこれも菊五郎という色彩あざやかな「旗」があったからです。言い方によっては、六代目菊五郎は現在もまだその血脈は生き続けているといえるのです。
(菊五郎劇団四十五周年パーティより)